こんな気持ちでいられたら

ロートル病理医。地味な医者ですが、縁の下の力持ちでいられることに誇りを持っています。

死に時

今すぐ死にたいわけではないが、私はいつか絶対に死ぬので、死ぬ時のことを考えてみた。

『どうせ死ぬならピンピンコロリ』と願う人が多いようだが、人間、自分の死だけはなかなか自由にできない。自殺は自分で死期をコントロールしているが、後始末を考えると、「後顧の憂い無く」とはいかない。
気分がふさぎこんでいるときに、「もう死にたい」などという思いが、ため息とともに、頭をよぎることもあるが、死ぬのは難しい。
家族のことを考えたり、残りの仕事のことを考えたり、そもそもどうやって死ぬかを考えるのも難しく、結局のところそのまま気分は上向いていって、死ぬことは無くなる。

では、自殺ではなく、普通に死ぬ場合はどんなタイミングがいいか。
冒頭のピンピンコロリ、脳出血心筋梗塞でもで、そのまま亡くなってしまうことを想定しているのかもしれないが、どっこい現代医学はそうやすやすとそういったことを許してはくれない。AEDも数が増えてきて、救命率はどんどん上がってきている。脳出血も少なくとも初期の診断技術の向上により正しく診断して救命率は以前よりは多少なりとも向上している。一部の癌は分子標的薬や免疫療法の進歩により治癒、延命が可能となってきている。

映画や小説の世界のように、「眠るように、おだやかに」などというのは、難しい。

などと、いっていて、あれ?私は人の死に立ち会ったのはどれほどあるのかな?と気がついた。
臨床実習の時以来、人が亡くなるそのときに立ち会ったことはそれほど無い。親族が亡くなった時のことは、その場にいたが、あまり覚えていない。
死ぬ瞬間、それほどの痛みが無ければよしと、残される人間は思うし、自分も死ぬ時は、そんなふうが良いと思う。
ちなみに、剖検では、遺体を切らせていただくが、このときには医者、というか科学者の気持ちが99%を占めている。残りの1パーセントはご遺族への配慮、ご遺体への畏敬の念である。

さて、そうすると、死ぬ瞬間というのは、それほど問題ではないことになる。生と死を分けるものが何かということ自体曖昧で、自分自身にとって生はもちろん大事であるが、自分以外の人にとって、生と死はどれほど重要なのだろうか。
すなわち、生きていても会わなければ思い出にしかならないわけで、死んでいるのとあまり変わらない。遺訓を残せば、いつまでも生きていられることになる。

死に時、と一言でいってもいろいろに捉える人がいるだろう。
死ぬ時の場所、死ぬ時の年齢、死ぬ時の死に方。どれも大切だが、しょせん、なるようにしかならない。生きていれば多少なりとも抗うこともできようが、死んでしまえば何もできない。
生まれてすぐに亡くなる運命の子供もいれば、100歳まで生きようと頑張っている人もいる。

病理医は、いろんな方の剖検をさせていただき、いろんな死に方があることをみている。
でも亡くなった方の臨床経過は知っていても、社会的にどんな生活をして来たのかはあまり知らないし、病気に関係のないことまでは知る必要も無い。

さて、私にとっての死に時、親と障害のある弟より後に死にたいし、子供たちが大学を出るくらいまでは、元気で働いていたいと思うが、若くして事故、病で倒れた友人もいた。自分の番はいつめぐってくるなどわからない。

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