こんな気持ちでいられたら

昭和育ちの病理医。今日も顕微鏡を覗き込みながら、細胞1個1個と会話しています。

死者の日(Day of the dead)に思う

グーグルのトップページを開いたら、ロゴがこんなでギョッとした。カーソルを合わせると今日はメキシコなどでの死者の日という祝日で、この日には家族や友人が集まり故人を偲ぶそうだ。凄惨かつ、悲惨な殺人事件が続けざまに起こり、精神的にだいぶ参ってしまうけど、それでも生きることを考えたい。

親を見送る歳になり、友人の親御さんの葬儀に出ると、早晩自分たちの番がやってくることを実感する。昨晩葬儀に列席した友人たちと話しても半分ぐらいは親御さんのどちらかが亡くなっている。いつか死ぬということはわかっているけど、自分たちの余命がどれほどあるのかは神のみぞ知るで、明日脳出血不整脈で死ぬかもしれないし、コロリとも死ねず不自由な体で長生きすることになるのかもしれない。もちろん、五体満足でいることができたらこれに勝る幸せはないが、何をもって健康体と言うのかの定義は難しい。いつ死ぬか、さらに自分がどんな死に方をするのかとか、死んだ後のことなど全く分からないのだ。

死んだ後のことまでは知りたいとは思わないけれども、いつ死ぬかは知りたいと思う。自分の死などコントロールできるわけはないけれど、生命保険以外にも少しは準備したいことはある。でも今日か明日、死にたいと思ったら、自殺してしまえばいい。自殺のための準備はそういらない。でも、生物としての人間は自分の命を生き長らえさせることを前提として生きている。自殺は人間としては本意ではないはずなのだけど、徹底的に精神を破壊されてしまったら考えてしまうのかもしれない。私も昔、自殺を考えたことがあったけど、その時の自分のことを否定も肯定もできない。そもそもどれほど死にたかったのかもよくわからない。今が幸せかというとよくわからないが、こうしてこの文章を読んでくださっている方と一緒にいろんなことを考えていることができるということは、恵まれていると思うし、あの時ふと死んでしまったりせず生きていてよかったと思う。そしてまた、私が今自殺したりしたら、このブログが終わってしまうわけで、それはなんとももったいないので、そんな気が起こったらまずは明日の記事を考えることにする。

詳しいことはよく分からないけど、自殺願望があるとかいう女性が8人も、それと巻き添えで1人の男性が殺されるなどという前代未聞の凄惨な事件が私の住んでいる神奈川県座間市で起こった。殺された女性の身元はわからないらしく、なんともいたたまれない。彼女たちが殺される寸前に味わった屈辱は、果たして自殺する原因となったことよりもずっと大きかったような気がして、さぞ無念だったろうと思う。それとも、自殺したいと思うこと以上の苦しみなんてこの世には無く、無念さを感じるようなことなどなかっただろうか。そうだとすれば、自殺というのはそういったことを上回るだけの相当な決心と勇気が必要なものだということになる。

一昨日にはニューヨークで自動車によるテロがあり8人もの方が亡くなった。ほとんどの人は、なんでその時、その場所で自分が死ぬのかを理解する間も無く亡くなったのではないか。お気の毒でならない。もし、自分が銀座通りを歩いていて、銀座3丁目の交差点で信号待ちをしていたところで突っ込んできた自動車にひき殺されたらやっぱりわけはわからない。理不尽極まりない話だけど、人の世というのはこういうものなのだろう。ならば、今を大事に生きるしか、生きる術などない。生きていたら、嬉しいこと、楽しいことはたくさんあるけれど、思い通りにいかず、悔しいこと、悲しいことも同じぐらいある。それぞれの出来事に対して鈍感になることなどできず、一喜一憂しながら毎日を過ごしていく。死にたいと思うことも悪くはないけれど、死はそこで終わりだ。終わりというのはすべての終わりで、自分で終わらせるのはいいけれど、果たして本当にそれでいいのかを考えてみよう。生きていたら必ず笑顔になれる日が来る。そのことを信じ、思いとどまって自殺する勇気を生きる勇気へと変えてみてはどうだろう。

その人の勝手で自殺してはいけない

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