こんな気持ちでいられたら

昭和育ちの病理医。今日も顕微鏡を覗き込みながら、細胞1個1個と会話しています。

犯罪に走る若者の来し方行末

今朝も濃霧



空模様は相変わらずスッキリしない。

台風9号の影響もあるそうで、気温と湿度だけは上がり続け、毎日ぐったりする。

アンはこのところ、散歩にもイヤイヤ出るそうだ。

犬が散歩をしたがらなくなるとは、尋常ではない。

 

今日も、トクリュウ、すなわち匿名・流動型犯罪グループのメンバーが何人か捕まったというニュースがあった。

大きく分けると、実行役、リクルーター、指示役、首謀者となるそうだが、そのほかにも情報源、案件屋、仲介屋など、役割は高度に細分化されているらしい。

どのようにして標的を探し出すのかはわからない。

しかし、数億円を外国へ運び出す人や、金塊など、私など見たことも聞いたこともないような「すごいもの」を持っている人が、世の中にはごまんといて、そうしたところが襲われるらしい。

2025年の特殊詐欺の被害額は、過去最悪の1400億円余り。

毎日4億円近くのお金がだまし取られていることになる。

毎日。

 

トクリュウの実行役や、特殊詐欺で電話をかける「かけ子」として、20歳前後の若者が捕まっている。

うっかり個人情報を渡してしまい、それを握られたまま犯罪者グループに引きずり込まれることもあるらしい。

引き返そうと思った時には、もう引き返せない状態に追い込まれているのだろう。

 

でも、犯罪を犯してしまえば、罪の意識に苛まれることになる。

そして、犯罪者として捕まれば、場合によっては貴重な若い時間を何年も失ってしまう。

たとえ1年であっても、変化の速い現代社会では、出てきた時にはまるで浦島太郎だろう。

それに、罪を償うといっても、被害者にとっては、いくら償われても損なわれたものが元に戻るわけではない。

犯した側も被害を受けた側も、その出来事を長く背負っていくことになる。

 

彼らは、どうしてそんなことに巻き込まれてしまうのだろう。

もしかしたら、ずっと幼い頃から、その原因となるものはあったのかもしれない。

もちろん、その原因は人それぞれだろう。

大人になりかける頃、その人の弱いところをつかれ、悪の道へ引き込まれてしまったのだろうか。

私が今の時代に若者として生きていたら、そうしたものに巻き込まれずにいられたという自信は、まったくない。

 

私が学生だった頃、学生でも持てるクレジットカードを発行している会社があった。

そのカードを持ってしまったために借金が膨らみ、ずいぶん苦労した覚えがある。

結局、首が回らなくなって親に泣きついた。

それまでに、せっかく集めたレコードをずいぶん手放してしまったことは、今でも悔やまれる。

SNSに、割のいいバイトなどと書いてあれば、少なくとも開いていただろう。

言葉巧みに誘導され、「個人情報」の大切さもまだよくわかっていない年齢だったら、私も絡め取られていたに違いない。

誘惑も罠も、昔よりはるかに身近にある。

そういう意味では、今の若者は気の毒だ。

 

騙されて犯罪者にされてしまった彼らに罪はない、と言いたいところだが、犯罪は犯罪であって、許されるものではない。

では、どうすればよいのか。

学校教育をはじめ、社会全体でその危険性を繰り返し教えていくしかないのだろう。

だが、危険だと教えるだけで、本当に彼らを守ることができるのか。

若者が犯罪に手を伸ばす前に、誰かに助けを求められる場所がなければいけない。

そして、危うい若者を、犯罪者グループより先に社会が救い出す。

そこまで考えなければいけないのではないか。

あれこれの依存症を防げ!

夏の朝焼け

夜明け近くに目が覚めてしまい、それから寝つけず、睡眠時間は4時間ほど。

結局のところ、昨夜も赤ワインを2杯ほど飲んでしまい、そのせいもあるのだろう。

朝のうちは、今夜は飲むまい、と決心するのだが、仕事が終わってホッとすると、今夜も一杯飲もう、いや、今朝ブログで宣言したばかりじゃないか、でもまあ一杯、となってしまう。

半ばアルコール依存症なのだと自分では思うが、それが四六時中とならないのは仕事があるせいかもしれず、仕事というのは、ある意味、生活の防波堤になっているといえる。

 

EUが、子供のSNS利用を規制する方向で検討を進めているそうだ。

専門家委員会からは、3歳未満にはスマートフォンやタブレットの画面を見せないことや、13歳未満は保護者や教師など大人の監督下でのみ、一定時間の利用を認めるといった提言が出されたらしい。

乳母車に乗っている赤ちゃんが、おもちゃ代わりに与えられたタブレットに集中しているのを見ると、今さら感は否めないが、かといって手をこまねいているわけにもいかない。

そもそもスマホだのタブレットといった機器そのものが、人間にとっては諸刃の剣で、子供にはその危険な部分が問題となる。

 

タブレットで遊んでいる赤ちゃんを乗せた乳母車を、母親がスマホをいじりながらふらふらと押しているのを見ると、年齢にかかわらず、依存症の危険は誰にでもある。

私だって、いい年をして、一時期ポケモンGOにはまったことがあるから、そんな若いお母さんを批判する資格などない。

そもそもデジタル空間を使ったあの手この手の錬金術に、一般人が抗うことなどできないのだ。

 

SNS利用を規制するとかどうのといっても、パソコンをその黎明期から利用している一利用者としては、何がSNSで、ブログはSNSとは違うのか、SNSとの連携を促しているブログはどこに位置づければよいのか、よくわからなくなる。

ことほどさように、電脳世界の中ではすべてが渾然一体となっているから、何が何だかわからない。

大人であれば、それが自分の心に良くないとわかれば、そこから離れることができる。

 

私の場合は、Facebookを読んで他人がうらやましいと思うことが嫌で、ほとんど利用しなくなったし、Xは内容が過激でついていけず、Blueskyという穏やかなSNSに移って、弁当の写真をアップしている。

ポケモンGOは、ある時突然飽きた。

子供たちが依存症に陥らないように導くことは正しいと思うし、依存症にならないような工夫もしてほしい。

こんな調子で私の酒好きも終わらせてほしいのだが、それはなかなかうまくいかない。

せいぜい、今のところ大きく体を壊していないのが、せめてもの救いか。

梅雨明けはいつやってくるのか

今日も小雨まじりの曇り空。

しばらくこんな天気が続くようで、梅雨明けはいつになるのだろうか。

高温多湿とはまさにこのこと。

汗が乾かないから、体温ばかりが上がっていく。

寝ている間に熱中症になるというのも、よくわかる。

今夜からは晩酌を控え、水分補給を心がけようと思う。

 

ヨーロッパでは熱波が続き、山火事も頻発している。

地球はこの先、どうなっていくのだろうか。

近年、蒸し暑い季節がやってくるたびに、その不安は増大する。

アンもぐったり

 

しかし、不安ばかりで、自分では何一つ行動していないようにも思える。

一人一人が環境保護に参加しなくてはいけないのに、人に言われたらやるけれど、自分からは動かない。

周りの人にも環境保護を促さなくてはいけないのだろうが、自分自身が積極的に取り組んでいないから、そのままになってしまう。

人のせいにしてばかりいないで、自分はどう行動しているのか。

そのことをもう少し考えなくてはいけないと、頬を伝う汗を感じながら思う。

朝の散歩と熱中症

梅雨明けとはなっていないが、雨はパタリと止んだ。

その代わりというわけでもないだろうが、蒸し暑くなってきた。

暑くなる前に散歩に出る。

6時前でも多くの人が歩いていて、挨拶を交わす。

鶴岡八幡宮から駅前を通って、由比ヶ浜大通りへ。

六地蔵を回って帰ってきた。

六地蔵



今日は曇りで、早いうちに歩いたつもりだったが、帰ってくるとアンは舌を出してパンティングしている。

私もちょっと頭痛がする。

一昨日も少し変な感じがしたので、おそらく軽い熱中症のようなものだろう。

途中でスポーツドリンクを買って水分補給。



自動販売機というのは助かるものだ。

現金の入っている自動販売機がそこら中にあるのは、治安のよい日本ならでは。

電子マネーも使えるので、スマホさえ持っていれば問題なかった。

熱中症になるかどうかは、その日ごと、人ごとに状況が違うという。

暑い日本にお住まいの皆様は、どうぞご注意いただきたい。

働いても楽にならない社会で

昨今の物価高は、給料の伸びをはるかに上回っていて、普通に働いているだけでは生活が成り立たないような感覚さえある。

ニュースでは、一人が生活するために月二十数万円かかるとも言っていた。

結婚しても、二人で働かなければ家計を維持するのは難しい。子供ができても、親子で一緒に過ごせる時間は限られる。

そうなれば、子育てを喜びよりも負担として感じる人が増えても不思議ではない。

 

石川啄木は、

「働けど働けど猶わが生活楽にならざり ぢつと手を見る」

と詠んだ。

 

しかし今では、それは啄木一人の嘆きではなく、多くの人の実感になっているように思う。

一方では、金融商品や資産の値上がりによって、働いて得る収入とは桁の違う富を手にする人もいる。

金融も経済を支える重要な仕組みではある。

それでも、働いて得られる報酬と、資産が生み出す利益との差が、あまりにも大きくなってはいないだろうか。

 

かつては、額に汗して働くことそのものに価値があると考えられていた。

しかし、懸命に働いても生活が安定せず、将来への希望も持ちにくい社会で、ただ働くことを美徳だと言い続けることはできるのだろうか。

労働が美徳であるためには、まず労働が正当に報われなければならない。

読書はデジタルデトックス

今日は1日夏休み

先日、大学の病理学教室の歓送迎会があり、遅刻しないよう仕事を早く切り上げて病院を出た。

会が始まるまで少し時間が空いたので、新宿で途中下車して紀伊國屋書店をのぞいた。

 

このところ、猛烈な勢いで本から離れていた。

しかし、村上春樹の『夏帆』を買い、久しぶりに紙の本を読んだことで、その質感を思い出し、本屋を歩く楽しみまで思い出してしまったようだ。

 

案の定1階には『夏帆』がずらりと並んでいた。

村上春樹は日本における紙の本を守る最後の神かもしれないなどとふと思う。

そのほかには売れ筋の本が並んでいたが、これは駅ナカの本屋と同じで、それほど興味を引かれるものはない。

もちろん、若い人、おそらく4、50歳ぐらいまでの人には面白いのだろう。

しかし、60歳を過ぎると、ある程度の本の内容は、これまで読んだことのある話の焼き直しのように思えてしまい、それほど面白く感じられない。

まあ、それが紙離れの原因の一つかもしれない。

 

文芸書のある2階へエスカレーターで上がると、書架に並ぶ圧倒的な量の本にいまさらながら驚かされる。

40年前の学生時代と売り場の様子はほとんど変わっていないのに、これでもかというほどの知の量を実感する。

ある意味、デジタルによる知の吸収がいかに進んだかを思い知らされる。

 

背表紙を眺めながら歩くだけでワクワクした。

ここでも売れ筋の新刊ではなく、古典が読みたいと思い、岩波文庫の棚へ向かった。

その手前にあった岩波新書を眺めていると、『「失われた時を求めて」への招待』というプルーストの解説本があり、手に取ってパラパラとめくった。

いまのところ、これを読んでいる時間はない。

また今度にしようと思い、今度こそ岩波文庫の棚へ移った。

プルーストの第1巻が平積みになっていて、いったんは手に取った。

しかし、やはり今はまだ読み始めるタイミングではないと思い、元に戻した。

書架には全16冊がずらりと並んでいる。

たしか光文社版もあったし、後で調べてみると集英社版もある。

どの版を読むか、よく考えてからにしようと思い、ほかの本を探した。

 

薄くて、すぐに読めるものがよい。

そう思って探していると、モーパッサンの『脂肪の塊』があった。

有名な本(岩波文庫は全て名著だ)なのに、読んだことがない。

それを買い、そろそろ出ようかと思ったが、せっかくだからもう少し見ていこうと、階段を降りかけたところで踵を返し、3階へ上がった。

 

ここには哲学書などがある。

書架の間をそぞろ歩きながら、結局、ヴィトゲンシュタインとは縁がなかったな、などとどうでもいいような思いをめぐらせていたら、AIについての評論が目に入った。

7月1日初版の新書だった。

これなら、まだ陳腐化してはいないだろうと思って買ったが、岩波新書よりずいぶん高かった。

電車の往復の時間によんでいる。

 

そんなわけで、ほんの時間潰しのつもりが、2冊も本を買うことになった。

それでも、買い物かごに10冊ほど本を入れて歩いている人が何人もいて、この人も本好きなのだろうか、などと勝手に想像する。

上から下まで、たっぷり見るところまではいかなかったが、それでも楽しい時間を過ごすことができた。

本を読んでいる間は、デジタル・デトックスの時間でもある。

この時間を失わないようにしておかなくてはいけない。

ついている時、そうでない時

今日も暑くなりそう

某有名プロスポーツ選手が交通事故を起こしたという報道があった。

事故の状況を見ると、自転車にも非があるように思うのだが、自動車と自転車の事故だから、車両同士とはいえ、自動車の方が責任は重くなるのだろう。

交通事故というのは、起こしたくて起こすものではないので、関係した方々はお気の毒だ。

その選手は怪我で代表チームからも外れていて、踏んだり蹴ったりだ。

 

怪我をする前は、代表選手として選ばれ、活躍を期待されていたのに、不運が重なった。

ついていない。

本人が望んだことならまだしも、まったくそんなことはない。

 

人生何事も表裏一体。

もしかしたら、その選手の怪我は実は軽く、早いうちに手当てをすることで、後々の選手人生のための養生になるかもしれない。

交通事故についても、相手の方が軽傷だったというのは、不幸中の幸いだ。

 

生きていると、ついている時と、そうでない時がある。

ついている時は、宝くじが当たった時でもなければ、あまりそのことを考えない。

逆に、ついていない時は、そのことをしみじみ考える。

けれども、その時には不運にしか見えなかったことが、後になって別の意味を持つこともある。

物事が、ついているのか、ついていないのかは、その時はわからない。

起きたことは受け入れなくてはいけないし、できることなら、それを奇貨として、自分の人生に役立てたい。