
昨日、お蔵入りさせていた記事を読み返していたら、プレゼンに関して思うことについての記事があった。
2024年4月に書きかけていたもののだが、ちょうど今夜、ある研究会でプレゼンする機会があるので、復活させることにした。
タイトルは『みんなよく知っているしよく勉強している』。
私の場合、カンファレンスとか、もちろん研究会・学会でプレゼンをすると、たいていその都度恥をかく。
何をもって恥ずかしいとするかはいろいろあるが、標本の読み込みが足りなかったり、考察が足りなかったり、さらには調べが足りなかったりして、恥ずかしい思いをする。
そもそも病理に診断を依頼してくるということ自体、なんらかの「意見」を求めにきているということを自覚しないといけないのに、私にはその意識が足りない。
こんなことを還暦にまでなってもいまだに言っていること自体問題なのだが、事実なので仕方がない。
それにしても、臨床医にしても病理医にしても「できる人」というのは、なんでもよく知っているし、よく勉強している。
もちろん、何も知らない医者に命を預けるわけにはいかないし、なんでも知るには勉強しなくてはいけない。
というところで終わっている。
うーん、還暦を過ぎてもうすぐ3年にもなるが、相変わらず人前に出ては恥をかいているし、今夜のプレゼンも一向にいい結語を思い浮かばない。
進歩がない。
人生、残り時間の方が短くなっていて、そんなことでいいのかということになるが、そもそも私は「できる人」ではない。
できる人でないならそれなりに努力しろ、ということになるが、努力できる人こそが「できる人」で、私のように努力できない人は、「できる人」になることはできない。
努力する、というのは本当に大変なことだ。
努力するには、したいことを我慢しなくてはいけない。
でも、したいこと、ってなんだ?
立派な人になりたい?
勉強ができるようになりたい?
芸術で身を立てたい?
目標に向かって何かをすることは、本当に努力なのだろうか。
したいことのためにやっているのなら、そんなものは努力のうちには入らないような気もする。
では、才能があったらそれができたか?
というと、そこそこの才能があり、労せずしていいところまでいっても、結局のところ努力しなければ大成しない。
うーん、こんなしょうもないことを考えている暇があったら、さっさと今夜のプレゼンんの準備に切り替えろ、ということなのだが、これはこれでやっぱり私は努力できない人間だからこうなってしまう、ということなのだろうか。
それとも単に能力が足りないだけか。
『みんなよく知っているしよく勉強している』というタイトルの記事が、どうしてこんなになってしまうのだろう。
それともこれはただ単に焦りのせいか。






