こんな気持ちでいられたら

昭和育ちの病理医。今日も顕微鏡を覗き込みながら、細胞1個1個と会話しています。

何もわかっていないのは私だけではない

少し雨がぱらつく

私は自己肯定感が低く、やることなすこと自信が持てない。

なんでも、無事に終わってくれたら御の字。

それでも、こうしておけばよかった、ああするべきだった、と後になってもいつまでもウジウジしている。

私のことなど誰もまともに評価などしてくれないとおもうが、そもそも私のすることに客観的な評価などできるのかもわからないのだから、仕方あるまい。

 

試験だって、どこまで頭の良さを的確に評価しているのかわからない。
上の上の方の、一握りの人を除けば、地頭の良し悪しよりも、試験技術の高さが優先されるような気もする。

人の評価なんて、確固たる基準があるわけではない。
自分のしていることが正しいのか、評価されるべきことなのか、結局のところよくわからないのだ。

これは私に限った話ではあるまい。

 

人間誰しも、何かしらの不安を抱えながら生きているはずだ。
そんなものは自分にはないと自負している人でも、その不安を何らかの形で埋め合わせているだけなのかもしれない。

そもそも、人間は自分が何をどこまで理解しているのかさえ、正確にはわかっていないのではないだろうか。

そんなことを思ったのは、昨日、ウクライナ問題に関して、ロシアの大統領が中国と米国に会談を申し入れたという報道を目にしたからだ。

 

ヤルタ会談を気取っているのか、世界の大国3カ国で話し合って決めようではないか、と提案しているようにも見える。

第二次世界大戦とは異なり、ウクライナ戦争はロシアが隣国に侵攻して始まった戦争であり、そもそもウクライナ抜きで大国同士が話し合って決める筋合いのものではないはずだ。

もっとも、グローバル化した世界では、もはや二国間だけの問題では済まない。
一向に埒のあかない情勢に業を煮やして、何とか出口を見つけようとしているのかもしれない。

しかし、そもそも何のために始めた戦争で、どのような出口を思い描いていたのだろうか。

これはウクライナに限った話ではない。
イランと米国、イスラエルとパレスチナ、その他もろもろの国際紛争を見ていても、それぞれの為政者たちは、自分たちの判断がどのような結果を招くのか、本当のところはわかっていないのではないかと思う。

もちろん、私などには知りようもない膨大な情報を持ち、優秀とされる専門家たちの助言も受けているだろう。

それでも、未来が見通せるわけではない。

何もかもわかった上で決断しているように見えても、実際には不確かな見通しの中で、手探りを続けているだけなのかもしれない。

しかも、そこには国家の利益だけでなく、政治家としての地位や名声、個人的な利害など、さまざまな思惑が絡んでいるはずだ。

 

そうした目に見えない不安や欲望に突き動かされて、次から次へと何かをしているものの、実は自分たちでも何をしているのか、よくわかっていないのではないだろうか。

そう考えると、市井の一人として、あれこれしょうもないことを考えながら、いまだに自分のしてきたことに自信が持てずにいる私など、可愛いものだ。

何もわかっていないのは私だけではない。

人間誰しもそうなんじゃないかと思うと、私の自信のなさを卑下してばかりいる必要はないようにも思える。