こんな気持ちでいられたら

昭和育ちの病理医。今日も顕微鏡を覗き込みながら、細胞1個1個と会話しています。

支配する人、される人

七夕、今夜は晴れるかな

現在開催されているサッカーのワールドカップ2026で、米国代表選手に出されたレッドカードを誤審だとして、米国大統領がFIFAに見直しを求めたところ、その選手に科されていた出場停止処分が解除されたそうだ。

参加している選手はもちろん、猛烈な緊張のなかで判定を下している審判も気の毒である。

ここには、いったいどのような構造があるのだろうと考えた。

 

サッカーをして、人に見てもらう選手がいる。

それを支える各国のサッカー協会があり、それらを国際的に統括するFIFAがある。

そこまでは、比較的単純な構造だった。

しかし、ここへ政治権力を持つ者が外から口を出すことで、話は変わってしまった。

制度の外にいるはずの人間の働きかけによって、ルールの運用や処分が変わり得ることが示されてしまったからである。

その外野が見ているのは、サッカーそのものではない。

自分を支持する大衆であって、それ以外のことは、どうでもよいのかもしれない。

 

権力を持つ人々に対して、かつては憧れのようなものもあった。

世の中をよりよくしてくれるのではないかという期待もあった。

しかし最近は、そういったものがだんだんと薄れてしまった。

閉塞感は増えこそすれ、減ることはない。

日本のように比較的自由な国に住んでいても、そんなことを考えてしまうのだから、そうではない国に暮らす人たちはどうだろう。

一昔前とは違い、世界中の動向が手に取るようにわかる時代である。

自分たちがどのように支配されているのかを知りながら、どうすることもできず、つらい思いをしている人も少なくないだろう。

 

支配する人というのは、支配したいから、その立場を目指すのだろうか。

それとも、気がついたらその立場にいて、いつの間にか人を支配するようになるのだろうか。

支配される人というのは、支配されることを望んでいたのだろうか。

それとも、自分も支配する側に立つことを望んでいたのに、それが叶わなかっただけなのだろうか。

人間社会における互いの関係性というものは、とても不安定で、わかりにくい。