こんな気持ちでいられたら

昭和育ちの病理医。今日も顕微鏡を覗き込みながら、細胞1個1個と会話しています。

考えることの自由と、言語化することの責任

少し明るい

人はいろいろなことを考える。

考えるというと、頭の中で何かを言葉にしているように思う。
しかし、うまく言葉にできないまま感じていることもあるから、考えるという行為は案外複雑なのかもしれない。

それに何も考えたくない時もあるし、体を動かしている時は考えるより先にしなくてはいけないこともあるから、常に言語化して何かを考えているわけではないのかもしれない。

 

いずれにせよ、人間は何を考えてもいい自由を持っている。

考えることは自由だが、これを言語化するとなると少々問題は難しくなる。

さらには言語化したものを発出するとなると余計に難しくなる。

自分にとって都合のよい考えだけを言葉にし、それを広く喧伝して人を一定の方向へ導こうとすれば、プロパガンダになる。

 

人間の考えというのは基本的には自分本位だから、他人の考え方との間に矛盾が生じる。

トランプ大統領の支持者には彼の主張こそ正しいと映り、反対する人には同じ言葉が到底受け入れられないものとして響く。

それぞれに言い分があって、歩み寄りが難しくなってきているのが現状だ。

 

私もあれこれ考えているが、それはあくまでも自分にとって正しいものであって、他の人から見ると多くは誤りで、改善点は多いだろう。

ブログで考えを言語化しているが、これが不用意なものであってはいけないし、誰かを傷つけるものであってもいけない。

ただし、考えたことのすべてを言葉にしているわけではない。無意識に選び、削り、多少は取り繕いながら書いている。そう考えれば、ブログに書かれた自分は、ある意味では偽善的な自分でもある。
考える自由と言葉にする自由。その間には、思っている以上に差異があり、なかなか悩ましい。

路傍の花と