
昨夜、雨の様子を見ようと窓を開けて外を見たら蛍が1匹飛んできた。
偶然近くに飛んできただけだと思うが、数年前にもこんなことがあった。
その時も近所の鶴岡八幡宮の放生会の後だったから、その時に放たれた蛍が迷ってやってきたのだろう。
妻の腕に止まってひとしきり遊んでくれた。

放生会とは、本来、仏教の「不殺生」の教えに基づき、生き物を放して生命への感謝と慈悲を表す法会で、やがて八幡信仰と結びつき、戦乱による殺生を悔い、戦死者を鎮魂する祭礼として発展したそうだ。
鶴岡八幡宮では1187年、源頼朝が源平合戦後の鎮魂と懺悔の思いを込めて放生会を創始し、これが現在の例大祭の起源となり、800年以上受け継がれているという由緒ある神事だ。
今日では鳥を放つ古式の形は見られないが、「生命の尊さへの感謝」という本質は、蛍放生祭や鈴虫放生祭の中に生き続けている。
放生会は単なる伝統行事ではなく、戦いによって失われた命、生き物の命、そして私たち自身の生を見つめ直すための祈りの儀式なのだという。
とはいっても、この辺りに蛍が住むせせらぎはなく、昨日我が家にやってきた蛍は、パートナーを見つけることもできずその生涯を終えるだろう。
昨夜の蛍は大変な体力の持ち主で、700メートル先の蛍の住む川にたどりついたとしても、もう先週末の台風で多くの仲間は流されているだろう。
蛍は儚い。
弟か父か、誰かが会いにきてくれたのやもしれず、妻と静かに見送った。
毎年、放生会の頃になると、あの蛍たちはどこで誰が捕まえてくるのだろと思う。
蛍を捕まえる人がプロなのか、蛍がたくさん出るところに住んでいる人なのかはわからないが、ボランティアではないだろう。
供養という考え方は理解できるが、また八幡宮の方へと飛んでいったその蛍を見送りながら、気持ちは少し複雑になった。