こんな気持ちでいられたら

昭和育ちの病理医。今日も顕微鏡を覗き込みながら、細胞1個1個と会話しています。

人工の色と自然の色

少しひんやりの朝

今日はプラスチックゴミの収集日。

家中のゴミ集めとゴミ出しはささやかな私の家事手伝いだ。

ビン、缶、  紙など、資源ゴミの分別もほとんど問題なくできるようになったが、危険ゴミとか製品プラスチックなどはどう出していいのか未だよくわかっていない。

 

ゴミをまとめるビニール袋をみると、これがいつまで供給されるのかと不安が頭をよぎる。

そしてその袋にプラスチックゴミを押し込みながらその包装紙のカラフルさが目についた。

ここまでする必要があるのだろうか。

 

もちろん、色彩は人の暮らしを豊かにしてきたものであることは論を俟たない。

ラスコーの洞窟画や高松塚古墳の壁画を見ても、人は太古から色彩を求めてきたことがわかる。

昔から人の生活には色彩が溢れていたに違いないし、なんとかして美しい色を得たいと苦心してきたに違いない。

そして今や、ほぼ無限の段階で色を作れるようになり商品ごとに様々な色が様々な形で描かれるようになった。

もちろん、プラスチック包装のみならず、街も色で溢れている。

その”色”がアメリカ・イスラエルとイランの紛争に端を発する、ホルムズ海峡封鎖でナフサの供給が停止し、”色”を支える材料そのものが手に入りにくくなるかもしれない

 

しかしながら、それはどこまで必要なのだろうか。

朝日が昇れば世界は色に満ち、美しい夕日とともに一日は終わる。

春夏秋冬、それぞれの季節もまた様々な”色”が私たちを包んでくれる。

もちろん生活には最低限の色彩が必要だ。

しかし現代社会には、少し”色”が多すぎるような気がする。

仮に”人工的な色”が手に入りにくくなったとしても、私たちは身の回りにあふれる”自然の色”を大切にすることで暮らしていけるのではないだろうか。

もっとも、その”自然の色”さえも人の手によって作り出されることが珍しくなくなった今、何が本当の”自然の色”なのか、”人工の色”との境界は次第に曖昧になってきているようにも思える。