
桜も満開を過ぎ、葉桜が目立ってきた。
おやつが飛んでくる様に思えるのだろうか、ときおり舞い散る桜吹雪に犬のアンが喜ぶ。

通勤で経由するターミナル駅のコンコースにある本屋が、昨年度いっぱいで消えた。
乗り換えの時間つぶしに立ち寄り、面白そうな本があれば立ち読みし、気に入ったらたまに買っていた。
レトリバーの雑誌は季刊誌で、その頃になると楽しみに書棚を眺めて歩いたものだ。
閉店は私にとっては唐突なものだった。
予告はあったのかもしれない。
だが、足が遠のいていた私が気づいていなかっただけかもしれない。
こんなことになるのなら、かつてのように1、2週に一冊買って応援しておけばよかったと思うが、後の祭りだ。

本屋というところは、知を売る場所だ。
紙に書き記された知だ。
どれほど装丁を整えたところで、本質的には文字の書かれた紙を綴じたものにすぎない。
その価値の中心は、やはり“知”にある。
もちろん、それ以外にも表現し得る価値はあるのだろうが、紙という媒体に付与されているのは、まずその中身だろう。
私のお気に入りの大型書店は、商業施設の最上階にあった。
素人考えではあるが、書店こそがその施設の目玉で、まず客を最上階まで引き上げ、そこから下の階へと誘導する仕組みだったのではないかと思う。
ところが、その書店に足を運ぶこともめっきり減ってしまった。
つい数年前までは、遠回りになっても立ち寄っていたのに、すっかり素通りになってしまった。
本を読むとき、まずはその厚さと対峙する。
薄い本であれば1、2日で読み終えられるので気軽に手に取れるが、村上春樹や『レ・ミゼラブル』、さらには字まで小さいクンデラを読もうとなると、それなりの覚悟がいる。
だが、いまはそういう気力がなかなか湧いてこない。
スマホで軽くコラムを流し読みして、なんとなく分かった気になって過ごしてしまう。

以前にも触れたことがあるが、個人の時間は確実に削り取られている。
紙の書物は、とりわけスマホの前に劣勢に立たされている。
こうしてまた一軒、本屋が消えた。
その事実を、どこか他人事のように受け止めている自分がいる。