
私が病理医になるために出身大学とはべつの某名門大学の病理学教室に迷い込んだ頃、生命科学の分野では急速に分子生物学手法を使う研究が急速に進んだ。
私もご多分に漏れず、当時流行りの核酸蛋白の性質を利用した研究を行った。
今にしてみればその技術を学んだのはよかったのだが、当時は”こんなことやって何になる?”という、馬鹿にしたような気持ちすらあった。
というのも、病理学というか病理診断というのは形態学であり、患者さんからとってきた病気の部分がいいか悪いかという判断をするので、形さえわかれば十分だと思っていたからだ。
当時は、病院で病理診断を行う”外科病理”と大学の病理学教室で分子生物学的研究を中心に行う”分子病理”という区分けがあって、外科病理医は、分子病理学者を”病理診断がロクにできない病理医”、分子病理学者は”ロクに研究もできない病理医”というような見方をして、互いに揶揄しているようなところがあった。
私は、その真ん中からやや分子病理寄りの道を進みながら、これまできた。
専門病院に勤めるようになって、好むと好まざるに関わらず、そのような手法を診断に組み合わせて行う機会が多かったが、一時期は、外科病理オンリーの病院で仕事をしていたこともあった。
一時期いた病院では、私の上司は外科病理の神様のような人だったのだが、その先生の定年後(私も同時にそのタイミングで辞めた)後を襲った後任者が、「もう◯◯先生の時代じゃないんだよ」と、技師さんに言っていたというのを聞いて、そんな失礼なことを言って、ずいぶん失礼なやつだな、と憤慨した。
だが、その後、オーダーメード医療の進展とともに、ガンゲノム医療が病理診断の現場にも入ってきて、件の後任病理医のいう通りになったかとほぞを噛むこともあった。

日本病理学会では、分子病理専門医資格という、病理専門医でないと取得できない資格(いわゆる二階建ての資格)を作って、数年前から試験を行うようになった。
学生時代から遺伝子の勉強をしていたであろう若い病理医はどんどん資格をとっているようだが、分子生物学的な知識がないオールド病理医はもとより、”形態学”にこだわってきた病理医には厳しい状況となっている。
試験自体はそれほど難しいものではないのだが、これらのことに無縁の人にとってはやっぱり厳しいのだろう。
ただ、遺伝子診断が必要な難しい症例がいくらでもあるわけではなく、形態学的な病理診断は基本的なレベルとして求められる。
だから、病理専門医資格があるのだが、それだけで外科病理をマスターできるわけではなく、そこからがスタートだ。
要するに、分子病理も病理学の一部であって、決して病理学を超えるものではない。
病理学というものは裾野の広い学問であり、それを極めようというのであれば全てを学ばなくてはならず、その分野の中でお互いを揶揄するのではなく、お互いを高めていうことを心がける必要がある。
しょせん、形態学の外科病理にしても遺伝子を判断する分子病理にしても、どちらも患者さんのための道具にすぎない、そんなに息巻いても仕方のないことだ。