
今日から6月、まだちょっと早かったかもしれないが、いい天気だったのでポロシャツだけで、上着を羽織らずに出てきた。去年から鉢植えで育てているクチナシが2輪咲いた。たくさんの蕾がついていて、これから梅雨明けまでのひと月ほどがとても楽しみ。クチナシのファンになったのが10年ほど前のことで、それ以来この季節が楽しみになった。

通勤電車の中では多くの人がスマホを手に持ち、思い思いの文章や映像を見ている。スマホを持つのは両手であったり、片手であったり、操作している指はもはや神経突起というか、触手というかそんな様相を呈している。キーボードを叩く私の指もやはり触手のようなものへと発達していて、指に向かう神経には第13番目の脳神経の称号を与えたいほどだ(注:脳神経とは、脊椎動物の神経系の中で、脳に出入りする末梢神経のことで12番まである。代表的なものは視神経で、目は直接外界に向けて脳を露出されている。他には聴覚や嗅覚を司る神経もある)。
先日テレビで見た文楽「嬢景清八嶋日記」では、源氏の栄える世は見たくないと両目を潰した平家の落武者が主人公だった。ゴッホは目で見たものだけの世界にいたくて音のない世界に行こうと耳を削ぎ落としたのだろうか。PC、スマホが発達し、指や手が単なる道具を操る器官から思考を表出するための脳神経に匹敵する器官となり、デジタル機器から逃れようと、これらを切り落とそうとする人が現れるかもしれない。

昨日、仕事部屋の模様替えをした(結界を解いた!)。こうして見るとキーボードとマウスは4つずつ、モニターは5台。病理医の仕事は、標本化した患者さんから採取された組織の顕微鏡所見をアナログ化して、私なりの解釈を与えたのちに、診断文に文字化すなわちデータに変換する。このデータ化の作業がかつては手書きだったのがワープロ書きとなった。そして今やこの環境はこれほど多くのPCの助けなくしてはできなくなっている。
ブログにしても、書き始めたころは携帯電話でだったが、今はPC、スマホだ。技術の進化は著しいが、私たちを取り巻く環境も大きく変わった。コンプライアンスの問題をはじめとして、エントリーを書くにしてもいちいち色々なところに気を配らなくてはならなくなった。書いている当人に悪意がなくても受け取る人によっては不愉快な思いをすることがある。

勝手気ままなことを”悪意のない範囲で”あれこれ書くことができた頃が懐かしいといえば懐かしい。このブログは自己省察を目的として書き始めたので他の人に対する批判の類はあまり書いてはいないつもりだが、読んでカチンと来ることもあったかもしれない。そもそも私のような存在そのものが否定される場合だってあるだろう。こうして、私がここに発する一言一言、さらにはその延長にある私自身の実生活までデジタル化されてしまっている。それは、他のSNSにしても同様だ。モニターの向こう側の変化が、私という生身の人間に対してダイレクトに及ぶようになり、それがあまり芳しくないものの場合、デジタル鬱という症状を呈してくるのだと思う。デジタル世界に取り込まれ、その中で精神に変調をきたすようになるなど、いったいこれまでの誰が想像しただろうか。
主体的に生きる

