こんな気持ちでいられたら

昭和育ちの病理医。今日も顕微鏡を覗き込みながら、細胞1個1個と会話しています。

人になにかを伝えるときは内容もさることながら話し方も大事


 裏山の山桜はほぼ散って、向こうの方の山の桜も少しずつ消えてきた。鶴岡八幡宮への参道である段葛の桜はまだ頑張っていて今週末までは花見を楽しむことができそうだ。そんな春本番の楽しい気分も、次々と明らかになるウクライナの惨状の報道により雲散霧消してしまう。ウクライナの人たちの苦難とこちらの平穏な生活のあまりの違いに罪悪感を持ってしまうものの、私にできることなどほとんどない。税金の一部でもがウクライナの戦争難民支援に使われるだろうと、っせと仕事に精を出すのが関の山だ。

 先週、友人の教授相手に今度の病理学会のワークショップでの私の講演の予演会を行わせてもらった時に録音しておいた講評を聞き直した。一週間経って改めて聞いてみると、その時は”ふんふん、そうだよね”などと思ったものの、すぐに忘れていたことに気づいた。どれも的を得た指摘で大変役に立た、早速手直しした。さらに、ディスカッション中の自分の声を聞くことをできたのは瓢箪から駒ともいうべきことだった。

 人と話している時、話している人の声の質、抑揚、張りはもとより、無意識のうちに細かな震え、喉の渇き具合まで聞き取り、その内容を総合的に理解している。対面で話すと身振り手振りさらには目力に惑わされて、何を話していたのかわらかなくなってしまうこともあるのに、声だけを聞いているとそのようなことはない。

 録音を聞いてまず感じたのは私の緊張した声。少し高いのは気になるものの、よく通ると言われる自分の声はあまり嫌いではない。そんな自分の声が、ディスカッションをするうち、友人に突っ込まれるたびに震えているということに気がついた。

  おいおい、緊張しているよ

 声を聞くうち、緊張感に加え、口渇感も伝わってくる。何より情けなく感じたのは攻撃的な声となっていたこと。攻撃は最大の防御とばかり、友人の指摘に対し明らかに防御しようとしていたのが伝わってきた。こんなことを本番でやったら赤っ恥以外のなにものでもないのに、これまでこんなことを幾度となくやってきたに違いない。遅まきながらそのようなことの無いように話し方を改めよう。内容さえよければというわけではなく、話し方が大事だ。

 世の中には”話の上手い人”というのが多い。政治家詐欺師宗教家、職業として話す機会の多い先生とか○○師などと呼ばれる人の中には、世間の全てを理解しているかのように、聞く人の前にその風景を見事に出現させることのできる人がいる。その風景が独裁国家の指導者やインチキ宗教の教祖、詐欺商法のセールスマンの話術によって見せられるものだったとしたら、それは悲劇を招く。そのようなことにならないよう、普段から自分なりの行動規範、考える規範というものを確認しておかなくてはいけないだろう。
いわれるがままにならない

ブログランキング・にほんブログ村へ←よろしく!→

 PVアクセスランキング にほんブログ村