こんな気持ちでいられたら

昭和育ちの病理医。今日も顕微鏡を覗き込みながら、細胞1個1個と会話しています。

祖父母のお出迎え

お盆でお墓参りに行った。ずいぶん暑い日だった。着いたときには何も聞こえないでいたのだけど、掃除をしているうちに、シジュウカラが機嫌良さそうにさえずり始めた。そのことに気がついた妻が「(コロ)健ちゃんがお墓参りに来たのが嬉しくてさえずっているようね」と言った。ホトトギスの声も聞こえる。

山のほうをみると、そのさえずり声がひときわ高くなったような気がする。

私は祖父母にずいぶんかわいがって育ててもらった覚えがある。私に物心が付いた頃から、東京に出てきた父の家で一緒に暮らしていたけれど、いろいと面白い人たちだった。祖父はその地方では大きな会社を曾祖父から引き継いでいた。先の大戦で、祖父は南方に行かされたり、終戦の年の春まで広島にいたりとかいろいろあったそうだが、一家全員生き延びて故郷に帰ることができた。終戦後、仕事を再開したが、ある知人の保証人となったことで、財産のほとんどを失うことになった。そのことで父もずいぶん苦労をしたようだったが、幸い屋号だけは残って商売を続けたらしい。そこで人のよい祖父に代わって商売をしたのが祖母だった。明治生まれの女性としては珍しく、女子大を出ていた祖母は、水を得た魚のごとく仕事に精を出して、父と叔父の2人を大学まで、卒業させた。

 

その後は比較的早くにリタイアして、あとは店をついだ叔父の店の店番ぐらいをして暮らしていた。その後、東京で医者としてそれなりに成功した父のところで年の大部分を暮らすようになった。2人とも明るく、他人に優しかった。少しつまずいたことのあった私に対しても、「ケセラセラ」と、生きることを言ってくれ、二十歳を過ぎた孫の頭を優しく撫でてくれた。人生、些細なことを気にしてもしかたないということだったのだろうか。戦争とその後の混乱期を生き延びてきた人にしてみたら、命の安全がある程度保証されている現代社会で起きていることなど、たいしたことではなかったのかも知れない。

お花を供えて、お線香を焚き、お墓にをあわせた。そのあと、お墓の向こうの山を見ると、まだ鳥のさえずりが聞こえてくる。そちらの方に向かって「ありがとう、じゃあ、またね」と言ってから、お墓をあとにした。

鳥のさえずりはまだ続いていた.

 いつまでたっても孫は孫

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