こんな気持ちでいられたら

昭和育ちの病理医。今日も顕微鏡を覗き込みながら、細胞1個1個と会話しています。

病理解剖で思うこと(8/10)ミクロ的な死と病理

マクロ的な死に対して、一個の生物としての活動の停止はミクロ的な死といえる。これまで古今の病理医が病理解剖を通して行ってきたのは、このミクロ的な死の検討だった。そして、このミクロ的な死の検討に答えはいまだ見つかっていない。

一つの事象、すなわち病理総論的に分けうる事項については、分子生物学の進歩によりずいぶんわかるようになってきた。 癌をはじめとするほとんどの腫瘍性病変が遺伝子の異常によって生じることは自明だし、先天異常に関する多くの染色体、遺伝子の異常が次々と明らかになってきている。感染症との戦いは抗生物質の開発と公衆衛生学の進歩で、一部を除いてほぼ勝利を得ている。ステロイド剤の細かな作用機序とか、各種薬剤の副作用とか、精神神経疾患の一部などわからないことは少なくないが、時間をかければそれらが解明しうるものだということは分かっている。そして今はそれらの疾患、治療法の効果、転帰についての検索が行われている。

 

ミクロ的な死というのは、これらの延長線上にあるもので、個々の、すなわち先天異常、腫瘍、炎症といった現象の帰結を組織、細胞レベルで評価することにほかならない。だが、それらは人それぞれの中で別々に起きているのではなく、相互の現象が密接に関連しあい、同時進行している。それこそが生命であり、このことの解明がこれからの病理医に求められることだ。

 

われわれ病理医の日常業務の大半は、生検や手術で採取、切除されてきたヒトの組織の診断だ。それらの診断は個々の独立した病態の解明だ。経過など、若干の時間的要因は考慮せねばならないが、だいたいはその病変だけの話で帰結する。ところが、病理解剖は違う。個々の病態を連結させ、その人固有の生物としての一生を解析する作業だ。だから、どれほど単純そうな病態の症例であっても、いざ病理解剖を行ってみるとその人が生きてきた、そして病んだ証があらわとなり、病理医はその複雑さの前に呆然と立ちすくむこととなる。

 

 病理医はその先に向かう

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