こんな気持ちでいられたら

昭和育ちの病理医。今日も顕微鏡を覗き込みながら、細胞1個1個と会話しています。

日はまた昇り、季節は巡る

毎年、この時期は起床の時間と日の出の時間が一致する。
目覚ましが鳴ると、これを止めながらカーテンを開ける。
朝比奈峠のほうに目をやると、夜明け直前の空が美しい。

ひげを剃り、顔を洗って、身支度をしてもう一度空を見ると、ずいぶん明るくなっている。
もう、先ほどの神秘的な色のグラデーションは失われている。
FM横浜で、DJ氏が「今朝の横浜みなとみらいの空、とても綺麗です。」と語っている。
天気予報でも、今日はいい天気になるとのこと。

今日も日は昇って、季節は巡っていく。
家にじっとしているだけで、まわりが過ぎ去っていく。

病院も似たようなもので、じっとしているだけで、いろいろな患者さんが来て、いろいろな人生を送っていく。そして、病理だからといって、いつまでも傍観者でいることはできない。実際、病理外来をするようになってそのことを実感する。
先日も触れたが、病理が関わるような事態というのは相当厳しい状況だ。病理医が診断する検体は、大小に関わらず、手術をしたか、亡くなって剖検をしたか、で採取されてきたものである。
病理外来で自らのこと、親族を亡くした遺族、そういった方達に接すると病理の役割というものが、ただ単に診断マシーンであってはいけないと感じる。

本来ならば、すべての診断について、患者本人に説明するのが筋のような気もする。
「私が、あなたをがんと診断しました。その理由は・・・」と。
でも、そんな余裕は病理医にはない。結果の説明は臨床医に任せるしかない。
医療の質の担保ということを考えると、どうかと思う。
オーダーメード医療、などというと聞こえは良いが、その人だけの医療など、できっこないのである。その人にあった最大公約数的な診断、治療を行っているに過ぎないし、それが精一杯だ。

結局のところ、こうして医療の意義、医療の限界というものに思いが至ってしまう。

こんなことを考えているうちに、また一日が終わる。
明朝も、今朝と同じような美しい夜明けを見ることができればよしとするべきだろう。


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