こんな気持ちでいられたら

昭和育ちの病理医。今日も顕微鏡を覗き込みながら、細胞1個1個と会話しています。

漂流する心

私自身の心の在処というものが、一体どこなのかがわからない。
なにかについて、一貫して連日連夜考え続けていれば、多少はいいのかもしれないが、私の場合、毎日、とりとめのないことばかり考えているので、考えというか思いというかはてんでんバラバラで安定することが無い。

考えや思いを、心という言葉に置き換えてみれば、心が漂流しているといえる。



漂流という言葉、字面通りとれば「漂い、流れる」となる。「どこを?」となれば、水の上だ。
海の上、湖水の上を漂い、流れる、ということで、最近では、東日本大震災で流出した大量のがれきが太平洋を越えて北米の西海岸に漂着しているということが洋上漂流物問題となっている。


さて、私の心の漂流だが、これはいったいどのように捉えればいいのか。

身体的には、鎌倉に住処があり、勤務先もあり、きまった通勤路もあって、漂流などという言葉とは全く関係ない。むしろ、生活全体は固定化して、毎日繰り返しの連続である。しばしば堂々巡りのように感じる。
それではなぜ、心が漂流していると感じてしまうのか。

漂流物は水がなくては流れることはない。
それと同じで、心というものもどこかを流れなくてはいけない。

心はどこを流れるのか。

自分の心の中を自分の心の中心となる、核のようなもの、があって、それが漂っているのか。
それとも、自分の心というものは、他人がいるから存在するものであって誰もいなければ、心など存在しないかもしれない。

かつて、私は自分のミッションはなにか?ということを考えたことがあった。
その時の基本的な考えは、「人は何かのために生まれてきた」ということ。すなわち、大前提として他人がいるのだ。誰もいない山奥で木が倒れてもその音は誰にも聞こえない、そんなことから、他人との関係性の中にこそ自分があると考えた。

だから、人の心というものも、他人があってこそ初めて存在する、というような気もするのだ。

人が集まることで社会が形成される。そしてそこには人の心が集まり、海のようなものとなる。
私の心が漂流しているのは、人の集まりからできた心の海のようなところなのかもしれない。


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